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舞さんからファンのみなさんへのメッセージ(2003年2月28日掲載分)です。
思いついたように時々降ってくる冷たい雨の中、去年の秋、白いシーツに人の形をつくっていた御遺体は、小さな箱に納まって、家族の元へと戻っていきました。解剖の最後の試験の前日、文京区のお寺で「遺骨返還式」が行われました。お骨の箱はとても小さいです。何十年と壮絶な人生を生きてきて最後におしげもなく御自分の身体を差し出して下さった方の最後の形です。お骨は後に残された人の為にあります。最後の心の拠り所です。生徒の一人一人、先生方、院長、それぞれがお線香を上げさせて頂きました。約半年間、ずっと一人の御遺体と向き合ってきました。この方がいらっしゃらなかったら、今日の自分はなかったでしょうし、明日の自分もおりません。きっとこの先、何年生きても、自分にとって全ての基礎となる半年だったと思います。そして次の日、2時間半続いた解剖の試験が終わりました。
飽きる程勉強しました。勉強なんて、いくらやっても十分という事はないのでしょうが、知る事は楽しいです。だからもう、うんざりですが又勉強します。
これをもって現学年の試験は全て終わりです。追試がなかったので、これからはハープの練習に専念できます。と言ってもコンサートはもう直ぐです。
ミーハーですが、試験勉強の間中、私は朝起きる時にMR.BIGのtake coverのドラムに起こしてもらっていました。今度ホームページ上で対談させて頂く聖路加国際病院の院長の日野原重明先生という90代のお医者さんは、『モロッコ』という映画の中でマレーネ・デートリッヒが素足で踏むタッタッタッというリズムに興奮するのだと話されています。心臓の音もリズムで、リズムで音楽は生まれると。本当にパーカッションの音はどうしてあんなに気持ちを奮い立たせてくれるものなのでしょうか。例えば、弦だけが美しいメロディーを奏でている時は音楽は自分を離れて頭の周りの高い所を漂っているのに、そこに太鼓の音が入ったとたん、自分自身の中が揺れ始めるような感じがします。人は誰でも身体の中にリズムをもっていてそれと共鳴するという事なのでしょうか。無知な私はレコーディングの時にドラマーの方、何人かと御一緒させて頂いて初めてパーカッションの音が実は演奏者によって全く違うものである事に気づきました。奏者の腕の筋肉を伝わってくる躍動感はその人そのものだとやっと分かるようになりました。それはその人のリズム感の違いだけではなかったんですね。とても奥深いと思います。
私は高校生の頃までにもっともっと本物に接するべきだったと思っています。修学旅行も長崎のハウステンボスなどではなく、京都や奈良、鎌倉へ行きたかったですし、せっかく行った色々な国の美術館では、もっとじっくり素晴らしい絵画や彫刻と向き合ってくれば良かったと思っています。どんなに、いい物と向き合っても、こちら側に迎え入れる素地がないと吸収できるものも少ないです。子供の頃に戻って叉同じあの絵の前に立ちたいなんて思います。
今はコンサートの事を考えてハープに集中しなければいけない時です。試験が終わったばかりだというのに昨日も半日、ちょっとしたレコーディングで時間をとられてしまってまいりました。
私のマネージャーさんはとてもプロ意識の強い人で、レコーディングの間中やきもきしてくれていたようです。コンサートの前もレコード会社の○○さんが昔からのやり方で、ノックをして私の楽屋に入ってこようとする時に、さっと飛んで行って「ちょっと待って下さい」と言って指ならしの邪魔にならないように、気を遣ってくれるようです。そう言えば○○さんはそれからデジカメを持ってこなくなったかも(笑)。でもありがたいと思っています。
それでは、今日はこのへんで。竹松 舞
(2003.2.28掲載)
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